◆野狐禅、あるいは生禅とは
禅宗で、禅に似て非なる、邪道な禅もどきの教えや状態のこと。生悟り。
悟りきっていないのに、悟りきったかのように思い込み、覚者として振舞うこと。
◆読み方
野狐禅(やこぜん)
生禅(なまぜん)
◆野狐禅の言葉の由来
禅宗用語。野狐とは「のぎつね」の精のこと。悟っていないのにいかにも悟ったふりをして人を欺き,奇異な言動をする禅の修行者のこと。「百丈野狐」は禅の公案にある。
コトバンク「野狐禅」より
*公案は、禅宗で悟りを開くために修行者に与えられる課題のこと。「禅問答」の問答にあたる。
◆野狐とは?
狐の霊。稲荷になりたくてまだなれずにいる半端者、人間でいえば浪人のような存在。
稲荷になるために善行を積むため、人間を助けるものもいるが、多くは悪さをするとされる。「狐憑き」とは、この野狐が人間に取り憑いた状態を指す。
◆禅宗の公案で語られる野狐禅
百丈野狐(ひゃくじょうやこ)」
-----
wiki「百丈懐海」より
禅宗で、禅に似て非なる、邪道な禅もどきの教えや状態のこと。生悟り。
悟りきっていないのに、悟りきったかのように思い込み、覚者として振舞うこと。
◆読み方
野狐禅(やこぜん)
生禅(なまぜん)
◆野狐禅の言葉の由来
禅宗用語。野狐とは「のぎつね」の精のこと。悟っていないのにいかにも悟ったふりをして人を欺き,奇異な言動をする禅の修行者のこと。「百丈野狐」は禅の公案にある。
コトバンク「野狐禅」より
*公案は、禅宗で悟りを開くために修行者に与えられる課題のこと。「禅問答」の問答にあたる。
◆野狐とは?
狐の霊。稲荷になりたくてまだなれずにいる半端者、人間でいえば浪人のような存在。
稲荷になるために善行を積むため、人間を助けるものもいるが、多くは悪さをするとされる。「狐憑き」とは、この野狐が人間に取り憑いた状態を指す。
◆禅宗の公案で語られる野狐禅
百丈野狐(ひゃくじょうやこ)」
百丈が説法していたとき、一人の老人が説法を聞いていた。 ある日老人は退かず一人残ります。百丈は不思議に思い、「一体、お前さんは誰か」と声をかけた。
老人は「私は人間ではありません。大昔この山この寺の住職として住んでいた。ある時、一人の修行者が私に質問をした。『修行に修行を重ね大悟徹底した人は因果律(いんがりつ)の制約を受けるでしょうか、受けないでしょうか?』。私は、即座に、『不落因果――因果の制約を受けない』と答えた。その答えの故にその途端、わたしは野狐の身に堕とされ五百生(五百回の生まれ変わり)して今日に至った。正しい見解をお示し助けて下さい」と懇願した。
-----
wiki「百丈懐海」より